2012/01/26

2013年1月26日
 腑に落ちなかったので考えた結果余りに馬鹿馬鹿しい解答に行き着いたので、まあ一応ひっそりと自己完結。

 そもそも業種、可視不可視有形無形その他全ての取引される『モノ』に左右されず市場には需要と供給がある訳だが、僕は古典派でも無ければ知識も無いんで単純に需要によって供給は左右されるといったオーソドックスなものを採用して話を進める。
 次いでサービス。要するに有償かつ無形の財であるが、さて、これが全く存在しないという社会は形成可能であるか。永久機関を備えた機械を組み立てさせ、それを製作した連中に対価を与え役職を外した後に全てのサービスを人手を介さず行うようにすれば良い。要するにそんな馬鹿馬鹿しいものはありえないので思考するだけ無駄ってことだが。
 このサービス、ライフラインなんかの普段当たり前に思えるものを維持する仕事の上で成り立っている。だから重要である。しかし釈然としない。
 当然、先述の通りサービスは有償で行われる。需要の先に供給がある。需要が無ければそもそも利潤を得られないのでサービスの供給は行われない。かといってライフラインを握っているので需要は常に存在する。要するに相互的に依存した形である。相互依存した形になったものにどちらか一方が何かを主張するのはおかしくはないだろうか。重要です。だからどうしたのだ。相互依存している限りこれは『重要です』から一歩も進んだ話題には成り得ない。それ以上は全く議論の余地が無い。賃金の話なら直訴するなり労組に駆け込むなりまた別のお話。
 もう少しスケールを小さくする。例えば、鉄道や航空機の座席のクラスとか。消費者はこれに対して選択の余地がある。これは輸送であるから、目的地に送り届けるというサービスは全てに置いて変わりない。つまり、目的地に行くという目的に対してその他の内容を付加している。そして、これは消費者の任意で削減が可能なサービスである。快適さに金を掛けたいという需要もあれば目的を達成できさえすればいいという需要も確かに存在している限り、これは『削減できるサービス』と認識するしかない。
 重要なのは、この各種サービスが供給側によって用意されるという事と、それらの選択を需要側がその需要によって採択することが可能ということだ。供給側は需要側の欲求を予測して用意する。需要側はそれを実際に選択する。それによって供給側がコストを削減するのである。需要側にとって削減できるサービスは供給する方にとっても必要ないコストと言い切って良い。言い切れないのであればそれは供給側の一方的な欲求でしか無い。
 さて、サービスを削減し続けたらどうなるか。サービスを受けられなくなるか。これもまずあり得ない。何故なら供給と需要は常に互いに支えられているからである。削減を進めたからといってサービスが無くなることはないのだ。何故なら需要側にここまでは削減するといった閾値があるからだ。『快適なシートは要らないが、目的地に辿り着かなければならない』と、丁度この様に。純粋たる現実に起きている市場の事実である。このような需要が供給に見合っている限りサービスが受けられなくなる自体はそもそもあってはならないのだ。それでも立ち行かないとなったらそれは最初から需要と供給が成り立っていなかっただけの話である。需要がない鉄道は廃線になる。ただそれだけである。
 需要があり、それを供給する側が供給することでそれに応じた利潤を得られる限りサービスが絶たれる事は有り得ない。何故言い切れるのか。先述のライフラインを鑑みれば良い。相互に依存している需要と供給は災害などの特殊な場合を除いて絶たれることはない。
 纏めとして、重要だといって供給側にだけ何か特别な感情や価値観を付加する必要は全く無いのである。それはどちらにせよ『美化』と言い切るをもってほか無い。相互依存している限り成り立つし、どちらかに偏った不健康なものは排除されるに限るのだから。
 まあ、そもそも削減可能だからというだけでまるで重要さすら認識していないとするような論調で攻められたので双方に齟齬があった訳だが、そんなことは微塵としてどうでもいいことです。この上でズレてると言われたらまあズレてるんでしょうね。私にとっては全く興味のないことです。
 あ、そうそう。何で馬鹿馬鹿しいかってね、幾ら消費者を小馬鹿にした所で一方的な供給者なんて存在しやしないからですよ。

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